I.プロフィール
1933年(昭和8年) 東京都生まれ。
父が海軍軍医で、横須賀の海軍病院に勤務中に昭和20年の終戦を迎える。
父は男ばかりの兄弟5人の行く末を考えて、自分の国の青森県八戸市に帰らず、横須賀市で開業。
その縁で、横須賀中学より同高校に進む。
1958年(昭和33年)東京大学医学部を卒業。
同大学院を終了後にアメリカ、テネシ ー州ナッシュビルのバンタービルト大学病院内科に留学、5年間を当地で過ごす。
1971年(昭和41年)より国立がんセンターに勤務、がんの診療、研究にあたる。
1992年(平成4年)国立がんセンター東病院長。
1994年(平成6年)国立がんセンター総長。
1999年(平成11年)に退任後、横浜労災病院長となり現在に至る。
(現在横浜労災病院長、国立がんセンター名誉総長)
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| 横浜労災病院・院長室で |
横浜労災病院 |
横須賀の女性と結婚、一男、一女をもうける。
現在は長男のところに孫3人。
横須賀市安針塚に在住。
II.横須賀旧制中学、高校時代のこと
私たちの時代には、横須賀中学に入学した者はそのまま新制高校に切り替わったため、同じ高校に6年間在籍した。
このホームページにもある同じ学年であった三和義彦さんの文にもあるように、最下級生を4年間務め、一級下に女子生徒が入学して来たので大騒ぎをしたクラスである。
この時代の思い出として、あえてこの2つのことを語らせていただきたい。
それは(1)松本先生の話、(2)運動会のことである。
(1) 素晴らしかった松本先生
中学校3年のときであろう。松本先生という英語の先生が私たちのクラス主任になられた。背の高い、ひげ面のメガネをかけたお顔を今でもよく覚えている。
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| 松本先生とご家族 |
厳しい先生であり、私たちのクラスもよく怒られていたが、何かその中に先生独特の温かみが皆に感じられた。
何かマジックにかけられたように、クラスの皆が変わっていった。部屋の中がきちんとし、皆が背を伸ばすようになり、しかもよく勉強するようになった。
松本先生がどんな秘密を持っていられたかは分からないが、私たちは大いに変わったことは事実である。
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| 松本先生の著書 |
ところが、ある日突然、先生は盲腸の手術中に腸閉塞を起こして帰らぬ人となってしまったのである。
松本先生がクラス主任として私たちに接したのは、1年にも満たなかったのではないかと思う。しかし、同級生と昔の話をするときに必ず出てくるのは松本先生である。先生は教師として必要なことを全て備えていたように思う。
私たちに接しておられた期間は決して長くはないが、先生の私たちに注がれた情熱は決して今でも消えていないのではないだろうか。
(2)馬鹿げた、しかし楽しかった運動会の応援
高校3年のときではないかと思う。運動会のときに何か面白いことがないかと思い、亡くなった
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小野田先生の似顔絵を使って応援
(看板をクリックすると拡大画像になります) |
大津清君と工作室に潜り込んで、小野田先生(ウータン)の似顔絵を作り、グランドで大きなうちわのようにして打ち振ろうと考え、木材にボール紙を打ち付けて作り始めた。
これを見て、喜んで加わって来て、むしろ熱心になってしまったのは広瀬テント君である。出来は決してよいとは思えなかったが、小野田先生は顔に手をかざして、一体何事だという感じで眺めておられたとのこと。
これ以降、我が高校の運動会は応援の方が楽しくなったと聞いているが、最近はどんな様子かは知らない。楽しい思い出である。
最近の運動会の様子はこちらでご覧
いただけます。
III.アメリカでの生活
1964年から1969年までの5年間、アメリカテネシー州・ナッシュビルにあるヴァンダビルト大学内科に留学。人生の中で最も純粋に研究だけをしているという日々を送った。
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写真左のリドル教授は、がん細胞がホルモンを産成することを発見したことで有名。
写真はカナダ・ケベック郊外で行われたロレンションホルモン・カンファランスのときに撮られたもの。
私もまだ若かった。 |
研究の内容のことはさておいて、アメリカ生活で学んだことは私の人生においては貴重なことばかりであった。
まず、日本という国を外から眺めることができた。そして私は日本という国がますます好きになったのである。
1964年ニューヨークに着いたとき、あの5番街で見た日章旗の印象は、NHKのプロジェクトXではないが、私の記憶に深く残っている。
アメリカ生活で学んだことの一つを取り上げれば、イエスとノーの使い方ではないかと思う。Don't
you mind 〜? と聞かれたとき、Yes と答えればYes, I do mindで日本ではNoの意味になるし、Noと言えばNo,
I don't mindでYesということになる。日本の習慣的な返事の仕方とYesとNoとが全く反対になることが否定型の問いの場合には起こることになる。
考えていると返事ができなくなることが決して稀ではない。すると返事をする度に考えることになる。Yesとは答えず、all
rightなどと言うことになる。
加えて、日本の場合だと、YesでもNoでもないという返事をすることも決して稀ではない。
ところが私にはこんな立派な英語は話せない。従って、YesかNoをはっきり相手に伝えるようになる。この結果は私に言わせればむしろよかったと思っている。
YesでもNoでもない返事が出来ない私を疑うような人はいない。あいつは素直で正直であるということになる。
結果として信用され、長い友人付き合いが可能になったと私は思っている。
40年も経った今日では、私はアメリカテネシー州、ナッシュビルの多くの友人に恵まれている。それはYesとNoをはっきり言おうと心がけた結果ではないかと思っているのだが。
IV.“がん”について
アメリカでの研究は主としてがん細胞におけるホルモンの産生という問題であった。
これが縁となり、国立がんセンターに移ってからの診療は、ホルモン依存性のある進行性乳がんの患者さんが主となった。進行性乳がんの患者さんとは、乳がんの切除後に再発したとか、初診時すでに転移があり、手術切除の対象とならなかった方々である。当然のことながら亡くなる方が多く、いろいろな場面に遭遇したが、これらのことは他でいろいろ記しているので割愛させていただく。
ここで皆さんにお伝えしたいのは、日本における“がんの現状”についてである。毎年約30万人の方々ががんで亡くなっている。大ざっぱに言うと、亡くなる方のほぼ3人に1人ががんということになる。これは恐るべき高頻度である。
一方、大まかに言って、がんになった方の2人に1人は助かっているのが実状である。すると、毎年60万人の方ががんになっている勘定になる。これは日本人ががんにかかりやすくなったのではない。がんになる確率の高い老人の数が増えたのが最も大きな原因である。
がんの原因は食物、生活環境、たばこなどの外的因子が70〜80%を占めることが明らかにされている。高齢化すると、このような外的因子にさらされる期間も長くなり、がんに罹る可能性も高くなる。
日本でがんで亡くなる方が増えているのは、歴史上類を見ない高齢化社会を迎えた結果なのである。
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<1981年(昭和56年)にがんは死因の第一位となり、以来その位置を保ち続けている>
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しかし、がんの頻度のパターンはかなり変わり、欧米化している。これは食物、生活様式が欧米化してきていることに由来すると考えられている。
例えば、頻度の減っているがんは胃がん、子宮頸がんである。一方、増えているがんとしては大腸がん、乳がん、肺がん、前立腺がんなどを挙げることができる。この最大の要因は、生活様式、ことに食生活の変化であろう。
現在、日本人のがん死亡数のトップは、男性では肺がんが胃がんにその地位を譲っているが、女性では相変わらず胃がんが1位にある。1位にあるとはいえ、その数は横ばい、あるいはむしろ低下を示しているが、一方において大腸がん、前立腺がん、乳がんなどの増加傾向は著しい。
がんの治療は顕著な進歩を示している。前にも述べたように、現在、大雑把に言って、がんの大体5割は治ると言ってよい状態である。
こうなったのは、手術、薬などの医療の進歩によることは言うまでもないが、特に治癒率を高めたのはがんの早期発見である。その意味で検診は重要であり、殊に胃がん、大腸がん、乳がん、子宮がんなど頻度の高いがんは検診による早期発見が可能な種類のがんであり、各自が自分の健康を守るという観点からも、自から積極的に検診を受けるという態度は重要である。肺がんも最近ではヘリカルCTが検診に導入されつつあり、治り得る時期での発見、すなわち早期発見が大きく期待されている。
しかし、全てのがんが早期に発見されるわけではない。例えば、食道がん、膵がんのように早期発見が現在でも難しいがんもある。がんで亡くなる方が毎年30万人はおられるということから、気付かれずにいつの間にか進行してしまい、治らないがんになってしまうことも決して少なくはないことを示している。この様ながんの患者さんをどうするかは大きな問題である。
治癒の可能性がある患者さんについては、やはり積極的に治療すべきであろう。最近の医療の進歩により、各々のがん患者さんについて、初診時すでに治癒の可能性が大体分かるようになっているのが現状である。
よい治療法がないようながん患者さんの場合、どうしたらよいのであろうか。
まず、がんに苦しめられるということ、すなわち痛み、呼吸困難、食欲不振、嘔吐、下痢などがんに由来するような症状で患者さんが苦しめられることを出来るだけ防いであげることが必要である。殊に痛みは辛いものであるが、モルヒネなどの麻薬の適正な使用により、痛みはまずコントロールできるような状態になっている。このような医療は緩和医療と呼ばれており、世に言われるホスピスをはじめ、一般の病院でも広く行われるようになっている。
確かに治す方法がないというがんも決して稀ではないが、総じて言えば、がんの半数は治る病気であり、糖尿病、アルツハイマー病のように治らない病気ではないということを考えるならば、積極的な予防、ことに二次予防と言われる検診の重要性は、各自によく理解していただくことが必要であろう。
V.同門の友達
高4期の中で、石渡隆夫(マンチ)、枡澤英一、藤井秀男、細井潔、今津正男、相川義治の諸君たちとは今でも仲良くしており、毎年1〜2回旅行をしたり、ゴルフをしたりして楽しんでいる。
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10年位前か、グループで湯河原に出かけた。大津君もまだ元気だった。
(左より故・大津清、細井潔、今津正男、枡沢英一、相川義浩) |
私以外は規則的に働く必要もないようで、随分一緒に楽しいことをしているようである。私も早く仕事を辞めて仲間に入るように言われているが、もう少し時間が必要であろう。
同じく仲間であった大津清君が数年前の正月に亡くなった。彼がマネージャーとしてグループをまとめていたのであるが、残念なことをした。後は、誰かということもなく、お互いに世話をし合うようになり、今でも切れることはなく続いている。
昔の仲間はよいものだ。会えば数分間で昔に戻り、頭の毛のことも、顔のしわ、あごのたるみのことも忘れて、昔の調子で語り出す。昔の仲間は本当にいいものである。
もう一つ、私にはグループがある。高1期伊藤邦男さん(元全国朝日放送株式会社(テレビ朝日)社長)、高2期の小野田正愛さん(元山之内製薬株式会社社長)、高6期和地孝さん(テルモ株式会社社長)と私の4人である。
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無 常 会
(左より和地、筆者、伊藤、小野田) |
横高会と勝手に称していたが、最近伊藤さんの提案により、“無常会”と命名されることになった。 その由来、理由などはまったく不明である。次回の集まりのときにでも明らかにしていただきたいものと考えている。
年に2〜3回どこかに集まり、ゴルフをしたり、食事をしたりしている。いろいろ分野が違う4人が集まり、ことに現役を離れた方々の舌鋒は厳しく、現役でないからこそそこまで言えるという感じもないわけでもない。
会えば時間の経つのを忘れて昔に返り、年を忘れて語り合う楽しさが続いている。時に同じ問題を論じあっているのか、またはお互いに熱心に話しているのに違う問題だったりすることもある。これも出身高校の取り持つ縁か。有難いことである。
VI.後輩たちへのメッセージ
私が第二次世界大戦の終戦を迎えたのは、小学校の6年生のときであり、父は海軍の軍医であった。父がこの大きな変革のときを乗り切り、5人の男の子を無事に育てることができたのは、医師という手に職があったからという思いが強かったようである。長男である私に、医師になることを強く勧めた。
私はあまり乗り気ではなかったが、特に反対する理由もなかったので、医師になったと言っても過言ではない。ちなみに兄弟で医者になったのは私だけである。教育費の問題もあったのであろうか、弟たちがそれぞれ優秀であり、自らの道を選んだということもあろう。
とにかく、手に職があるということは、このような混乱した時代を生きていくのには非常に強い武器であることは間違いない。私は現在、病院長とともに、横浜労災看護専門学校長も併任しているが、最近では40〜50歳で看護師を目指して入学試験を受けに来る方の数がとみに増えているのが現状である。このような事実は、現代のような時代においてはやはり手に職があることが珍重されることを示している。
プロということから考えてみると、手に職を持つことは重要であり、プロだからこそということが必要になってくる。プロとは、その職業をもって自ら、そして家族をも養う能力を持った人である。プロへの道は決して容易ではなく、また国家資格など、そのライセンスを持ったからといって、それで終わりではなく、引き続き生涯学び続けることを要求される職業でもある。
これからの世の中は、組織の中で生きるにせよ、個人で生きるにせよ、自らを支えていくためには何らかのプロとしての腕を持った方がよいと思う。会社に入ったとしても、会社の中だけではない、社会に広く通用するプロとしての仕事を持つことが、これからの社会ではより要求されるようになるのではないだろうか。
プロとは何かということを考えながら、皆さん自分の将来の夢を描いていただけたら幸せだと考えている。
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